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1F 2-2-13 Koishikawa, Bunkyo-ku,
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後楽園駅
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KORAKUEN Station (M22, N11)
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KASUGA Station (E07)

写真:“ベルギー、ブランケンベルへのビーチと海 ” The Beach and the Sea, Blankenberghe, Belgium by wikimedia commons

■ドーバー海峡


次の日、オーステンデにて無事荷物を受け取り、夜行船が荷物も少ないようだったので、私はそれで行こうと決めた。その日は一日中風が吹き荒れ、夜が更けるにつれてますます激しくなった。出帆の時刻が近づくと、幾人かの船員が荒天航海の準備の為に船に飛び移り、一方、他の船員は荷物をしまい込む準備の為に船肩の蓋を取っていた。私は船長に会えなかったので、機関長にケースの積込みの為に二人程船員を貸してくれるように頼んだ。彼は少しためらっていたが、とうとう二人の船員に私の手伝いをするよう命じてくれた。かくして私のケースは船上に運び上げられ、ハッチの下に他の荷物と共にしまい込まれた。陸にいた船長がやがて乗船してきたが、彼には配慮するべき仕事が多過ぎて、荷物どころではなかった。この頃になると、風は南西から吹く完全な疾風に変わってしまっていた。その上この港の入ロには、移動砂堤が幾つもあったので、船にとっては危険な風になっており、次の列車が到着しても船は出帆出来なかった。とうとう晩になっても出帆出来なくて、出発時刻は翌朝になってから決定する旨のアナウンスが流れた。

写真:海峡を渡る19世紀の帆船

朝になって、ドーバー海峡定期船が一時間の遅れで入港してきた。その船の船長の天候報告によると、海上の状況は極めて悪いということだったので、我々の船長は、風が少し静まるまで出帆を決行しようとはしなかった。我々の船が出港したのは、風が少し萎えた夜も大分更けてからであった。風が少し衰えたとは言っても、海上はその情慈の様相を少しも鎮めてはいなかった。事実、一層荒れているようにも見え、港の防波堤の外へ出たとたん、我々の頭は足のあったところに、まるでまりのように転げ回ってしまった。船は、よく波に乗ってはいたが、ほとんど波に対して垂直状態で進んでいた。それは全く記録的な航海であった。船倉の積荷は崩れ、転がってしまっていた。それを整理する為に船員がハッチを開けて中に入ることになった。私も大切なケースが心配で、彼等の後について這って行き、船倉をのぞき込もうとしたら、危うく頭から投げ落とされるところだった。私は船員に引っ張り戻され、彼は何度かそんなところへ行くなと叫んだ。しかたなく私は再びよろめきながら船室の扉まで引き返したが、室の空気は“むっ”として、とても中には入れなかった。私はケースの梱包は頑丈だったと思い込み、自らを慰めた。私はずぶ濡れになって寒さに震えていた。というのは、私の旅行がこんな終幕になろうとは思わなかったし、もう六月にもなっていたので外套を船倉のトランクの中にしまい込んでしまっていたのだ。私を含めた数人は、この時小さな甲板船室にたどり着いた。その 船室の扉から、船の状況はどうなっているか、他の船が見えないかと時々外を見渡した。しかし見えるものは何もなく、嵐の海の様相と、刻々と暗さを増してゆく夜のとばりといったら、言いようもない淋しいものだった。

写真:“グッドウィンの浅瀬” Goodwin Sands by soundingsonline.com


突然機関士の打ち鳴らす鐘の音を聞いた時にはどきりとしたが、やがて船の速度が落ちてきて、船は水をかぶることもなく、今までよりも安らかに海面を漂い流れ出していた。船客達は今、ドーバー海峡にさしかかっているのに違いないという人がいたし、あるいは機関士達が休息を欲しているのに違いないと想像する人もいた。そしてずぶ濡れになることから免れて、皆喜んでいたのも束の間に突然、船がぐっと傾いた。船の上に大量の海水が押し寄せてきた。海水が一過した後には、動くものはすべて押し流されてしまった。私は自分の身を守ることだけで精一杯だったが、その場にいた数人は膝をついて倒れながらも、船室の中から扉を閉め、かんぬきをかけることをやってのけた。これが間に合ったのは全くの幸運であった。なぜなら船体が立ち直った時、大量の海水が押し返してきて、すんでのところで船室を水浸しにしてしまうところだったから。

激しいローリングがしばらく続いていたが、その訳を私は知ることが出来た。つまり幾度となく船は進路を変え、やっと今は英国に船首が向いたのだった。やがて誰にとっても恐ろしい試練が待ち受けていた。我々の船は、恐怖のグッドウィンの浅瀬に近づいていた。そこは町の灯も、一隻の船も見ることが出来ない場所なのだ。無事にその場所を通過した時には、我々はただ神に感謝するのみであった。

船は一旦、防波堤を通り越し、ドーバー港に入っていった。そして船首を巡らして東側桟橋にたどり着いた。押し寄せる大波が桟橋の端から端まで渡っていた。それゆえ到着後の下船が大変な苦労で、その姿は痛ましいばかりだった。私もまたずぶ濡れで、みじめな気持ちで下船して、荷物が税関に運ばれていくのをじっと待つほかはなく、翌朝の検査まで荷物の安全を確かめることすら出来なかった。私はキングスヘッドホテルへ行き、すぐにベッドにもぐり込んだ。

■ロンドンまでの帰途

写真:”19世紀のバイオリンケース” Pictures for Listing # 503 - FOLK-PAINTED, 19TH CENTURY VIOLIN CASE, WITH EXCEPTIONAL FOLK FLAG AND SHIELD by antiquescouncil.com


翌日目を覚ましたら、正午になっていた。私は朝食をすぐにとって、税関に出かけた。着いてみると、その光景は信じ難いものだった。私の荷物は無残にも壊れて四散していて、ただ小さな破片が内側に沢山付いているだけだった。その破片は私の見たことのないものとごちゃ混ぜになっていた。税関対象となる品物は、すべて一方に寄せられていて、それらがまるで種々雑多なコレクションを呈していた。葉巻の入った箱、コローニュ化粧水の入った六本の大きなカットガラス壜の残骸、何ひとつとして満足な形を残してはいなかった。どうやら残っていたものは、少しばかりの香水の残り、オームの入っていないオーム籠、スリッパ等であった。「離れて下さい」と税関吏が私に声をかけた。「このケースを全部開けますから」。私は「早く開けてみたいのは私の方だよ」と彼に言ってやった。彼は部下の一人にそれを開けるように命令した。しかし、その時まで彼は、これらの破損提等すべてが私の所有物だと思い込んでいたらしく、「すべての関税は払ってもらうからね」と私に言い放った。「そんなものには責任は持てないね」ときっぱり拒むと、彼への心証を大分損ねたらしかった。彼は「そんな手は古くて、見え透いていて何の役にも立たんよ」とそっ気なく言うと、注意をケースに向けた。どのケースの中身も楽器は無事で、私を安堵させた。そこで税関吏は、一台一台取り出させて調べたが、それらの中に香水や葉巻をしまい込んだ形跡は見当たらなかった。結果的に何ひとつ疑わしいものは出てこなかったのは言うまでもないが、彼の常識程度でも、二~三本の葉巻の関税を免れる為にチェロ一台を棒に振る危険は冒さないという位は分かっていただろうに。最後に「では、あなたはこの葉巻等に対する関税を払う気がないのですね」と彼は言った。「もちろんですとも」「それでは、これ等は没収ということになって、あなたはこれ等を失うことになりますよ」と追い打ちをかけてきた。そこで私は「それ等は、もともと私のものではないのですから、失ったことにはなりません。私は引き取ることも、関税を払うことも拒んでいるのですよ」と言った。

写真:黄金期ストラディバリチェロの一例 A.stradivari:Violoncello“Piatti” 1720. “Violin Iconography of Antonio Stradivari” by HERBERT K. GOODKIND  page526 


そんなやりとりの後、それ等はすべて片付けられた。「次に、この楽器はあなたのものですか」。「そうです」。「それで、売るつもりですか」。「そうです」。「ご自分でお使いになるのではありませんね」。「そうです」。「それでは、郵便を運ぶ船で売り物を持って来た罪で罰金を課さねばなりません」。「それはまたどうしてですか」。「商品は郵便船で運ぶことがすべて許されていませんから」。「では、なぜオーステンデで拒絶しなかったのですか」。「それは我々には関係ないことです。あなたは罰金を払わねばなりません」。「それはどの位になりますか」。「すぐにお知らせしましょう」。「しかし、知らずにやってしまったということを考慮に入れて、出来るだけ安くして項きたいのです」と私が言うと、これには返答がなかった。十分程待っていると、彼は戻ってきて、「出来るだけ安くみて、罰金は五ポンドです」と言った。しかしこの額をこの場で支払ってしまうと、これ等楽器のケースをロンドンまで運ぶ為の運賃が手もとになくなってしまうので、私がそのことを説明すると、「それでは、罰金はロンドンから送金してもよいが、それが着くまでケースは預かっておきます」と彼は言った。しかしその様なことはしたくなかったし、これまでせっかく全行程を共にしてきた楽器なのだから、どうしてもロンドンまで持ち帰ろうと決心していた。それで、駅長を探し出し事情を説明した。彼はロンドンまで普通列車でケース類を携行して、罰金の支払いまでロンドン駅に留置することを条件に許可してくれたのであった。ロンドンに着いて、精算所で荷物の運賃を支払ったら、手もとには私が旅費として持ち出した百ポンドのうちの一シリング六ペンス(駅から 銀行までの馬車賃)が残るだけとなった。

かくして私のセントペテルスブルグ訪問は、とても楽しく幕を閉じることになったが、ロンドンに返り着いても後悔の思いは全くなかった。帰途の旅は心配の連続だったが、うまくそれらを切り抜けられたことが非常に嬉しかった。他国で税金が逃れられて、自国で罰金を課せられようとは思ってもみなかった。 間もなくこの蒐集品は調整され、売りに出された。ストラディバリウスのチェロのうちの一本、一七〇八年作のものは、 カルロドス氏に買われていった。

第34話~名手「ビュータン」との出会いーその1-~へつづく