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photo : "The Violin Channel"16th Oct 2019


戦争の苦境を乗り越え、弦楽器製作者としてのキャリアを全うし、そして後進の育成に尽力した偉大なるマエストロ、レナート・スクロラベッツァ。 2019年10月14日の夕方、92歳でこの世を去ったレナート氏は、間違いなく20世紀のイタリアン・バイオリン製作を代表する巨匠の1人でした。彼の逝去をアンドレア・ザンレ氏より聞いた我々は、耐え難い痛惜の念を感じずにはいられません。 追悼の意を込めて、レナート・スクロラベッツァ氏の半生を紹介いたします。
製作者として

レナート・スクロラベッツァ氏はパルマ近くの村ノチェートの農家に生まれました。青年期は第二次世界大戦による貧困と飢餓に苦しみ、18歳の頃には体重が50キロしかなく、歯をすべて失っていたとの事です。彼の故郷は戦闘機による民間児への機銃掃射が行われ、今日明日生きる事さえも困難な状況だったといいます。
それでもレナート氏は、「こぼれ落ちた麦の穂を集めて飢えを凌ぎ、ボロ布で作ったボールで遊ぶ日々だったが、常に生きる事への喜びを感じていた」と語っております。

7歳から家族の為に働いていたレナート氏は、家具工房に弟子入りし、戦争終結後は貿易の仕事を行うと同時に、楽器製作を学びました。1950年にクレモナバイオリン製作学校を受験し合格。4年間製作を学び、卒業後はクレモナ市の国立バイオリン製作コンクールで2位を受賞しました。
1950年代後半から60年代にかけて数々の国際コンクールでの受賞を経験した事で、この若き天才への評価は確かなものとなりました。

photo: the website of Wieniawski competition
教育者として

1975年に彼はパルマ音楽院の学長より、バイオリン製作学校を設立するよう招聘されます。彼の学校は娘のエリーザ氏、そしてその夫のアンドレア・ザンレ氏によって現在も受け継がれ、優秀な職人を輩出しております。

「私は無口で、とても恥ずかしがり屋なので、人に何かを教える事など信じられませんでした。しかし自然と私は、他の人に何かをしてあげることに夢中になりました。 そして、私は思いやりと愛をもって物事をしなければならないことを知り、そうした行いは人間を良きもの、美しいものへと導くのだという事を理解しました。」

「私はマエストロと生徒が平等な条件にある非常にリベラルな学校を作りました。そこでは親しみを持ちつつ、敬意を失う事のない優秀な生徒を育てました。私の意志は娘のエリーザによって確立され、今日の姿に現れています。私は製作だけでなく、絵画、彫刻、建築、そして応用芸術など、職人はあらゆる芸術と歴史に常に目を向けながら、未来に向かって進むべきだと考えます。」

photo :the website of "La Scuola Internazionale di Liuteria Accademia Renato Scrollavezza"

楽器製作への思い

レナート氏の作品は、独特の温もりのある音色が高く評価されております。彼が理想とする楽器とは何だったのでしょうか。

「ストラディバリの工房がどんなものであったかをよく想像するのですが、それはいつも私に興味を与えてくれます。彼は工房の顔であり、生徒の育成方法を知っている絶対的な親方であり、本当の知識、理解、想像力を伝えていた人物だったことが伺えます。 それが、私が想像することを好きな理由です。 」

「 バイオリン製作者は、木材の杢の美しさばかりを注意深く見ていますが、仮にストラディバリもそうしていたとしても、外観だけで判断する事は間違っていると思います。 木材の本質は杢だけでは測れません。 繊維は一列に並んでるのではなく、波打って走っています。杢は木材を切ったときに現れる自然な事象の一つに過ぎません。 メーカーは美しい木材を探し、プレイヤーは耳ではなく目で選ぶことに頼りがちですが、ストラディバリでさえポプラやヤナギなど杢のはっきりしない素材を、主にチェロといくつかのヴィオラ使用しております。これらは豊かで際立った音色を引き出すのに最適な木材であるため、用いられたのでしょう。」

「バイオリンメーカーになるためには、ミュージシャンの感性が必要です。音のことを考えた厚みや、曲線の流れを理解する必要があります。 私の若かりし頃、1950年代ミラノでは世界最高のバイオリンメーカーがいましたが、彼らの楽器はソリストが望んでいたようには鳴りませんでした。 その作品はギリシャの彫刻のように美しく、本当にうまく作られておりましたが、音色に暖かさをもっていませんでした。それは硬く、歌うように響きはしませんでした。 彼らは駒、魂柱、テールピースなど音色を作る要素は眼中になかったのでしょう。」

Photo:レナート氏の邸宅の一室。彼の作品がコレクションされている
芸術家、そして父として


レナート氏は芸術をこよなく愛し、ストイックで気難しい性格だったともいわれておりますが、一方で家族への愛にあふれた人物であったことが伺えます。

「1963年に人生で初めてレストランで食事をしました。しかしながら、私は美味しいものを食べるよりも、18世紀から19世紀に作られた芸術品を買うことの方が好きでした。コツコツとお金を貯めて、少しずつ自宅にコレクションを集めました。」 

「私は39歳で結婚してから20年間、日曜日と休日も働きました。しかし、私は子供が生まれると、親の責任を尊重する必要性を感じ、“普通の週末”を過ごせるよう最善を尽くしました。 私は家族を海辺に連れて行ってから仕事に戻る生活をしました。それが退屈だとも感じることもありましたが、私は努めて独創的な生き方ではなく、正常な生き方を心がけました。」

photo:弊社社長・堀がレナート氏の邸宅を生前訪問した際の写真


人間愛に満ち溢れた偉大なる巨匠、レナート・スクロラベッツァ氏へ、改めて哀悼の意を表します。

参考文献
■Cozio Carteggio "Interview with Renato Scrollavezza"15th March 2017

文:窪田陽平