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第12回は、南フランスの都市ニースの製作者、ピエール・パシュレルを紹介いたします。ニースはイタリア・トリノ市との関係性が深く、パリやミルクールとは異なる作風を持った地域として知られています。

写真:現在のニースの風景




1815年にナポレオン帝政が終焉を迎え、ニースはサルデーニャ王国に割譲されました。 19世紀後半にかけて、イタリアは現在の統一国家へと生まれ変わる大転換を迎えますが、その統一運動を指揮した英雄、ジュゼッペ・ガリバルディの故郷もニースでした。当時のニースはこうした情勢不安定な中にありながら、文化的にはイタリアとフランスの両方の特徴をあわせ持った、非常にユニークな発展を遂げました。

写真(右):https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Italy_1796.svg





生い立ち

ピエール・パシュレルは1803年にミルクールに生まれました。7歳の時に父親と死別した記録のほかは、幼少期に関する情報はほとんど残っておりません。しかし彼はおそらく若いときにミルクールにて弦楽器製作の基礎を学んだと考えられております。

1820年代からイタリアをたびたび訪問し、特にトリノへはかなりの頻度で行っていた様子です。かつてフランスの統治下だったこともあるトリノには、多くのフランス移民がすんでおり、パシュレルもそうした同朋を訪ねて行ったことが伺えます。この時期に彼はトリノの名工、ジョバンニ・フランチェスコ・プレッセンダと知り合ったようです。

1826年にはしばらくトリノに住んでおり、その後ジェノバへと移住しましたが1829年頃に再びトリノへ戻りました。




製作者としての功績

パシュレルはかつてプレッセンダの弟子と考えられておりましたが、最新の見解ではむしろ仕事上のパートナーに近い関係にあったとするのが通説となっております。1829年から1832年頃までのトリノ時代は、プレッセンダの下請けとして製作をおこなっていた為、すべてプレッセンダ製の楽器として現存しております。

プレッセンダ工房にはジュゼッペ・ロッカやほかのフランス系職人も下請けで働いていたため、一見すると誰が製作したのか判別がつきにくいのですが、精緻に見比べるとやや線の細い、優美なウッドワークにパシュレルの個性を感じとることができます。

写真:"Pressenda Co", Liuteria Italiana Ⅳ, ERIC BLOT, 2001, p61より引用



ニースに移住、独立

1832年に彼は南仏のニースに定住し工房を構えました。独立後もトリノを頻繁に訪れておりますが、これはプレッセンダから楽器の請負製作を継続していた為であると考えられています。実際に1849年頃までのプレッセンダ作品には、パシュレルの手が入っている個体がしばしば見受けられます。

自身の作品は徐々にプレッセンダの影響が薄れてゆき、全体的にフレンチテイストが顕著になっていきますが、一部の作品はトリノ時代を彷彿とさせるような、ディープレッドのニス、フラットながらも有機的なアーチを持ったモデルで製作されております。



市場における評価

現在もっとも価格が高騰している銘柄であるプレッセンダの作品を実質的に手掛けていたこともあり、パシュレルの評価もフレンチメーカーの中では上位に位置しております。ニースで製作された作品のなかでも、トリノ時代の影響を残した個体はフォームの良さから音色も素晴らしく、プレッセンダと比べて遜色がない実力を備えております。

写真:Cello 1852 / Violin  1855 by by PACHERELE.Pierre.Nice

参考文献:Liuteria Italiana Ⅳ, ERIC BLOT, 2001,